お店を持った経緯

★ガラス工芸のお店を持った経緯

チョット話は長くなるけど読んでくれるかな?
まずステンドグラスをやり始めるきっかけですけど、今から20年位前、まだ子供が4歳と2歳の頃でした。
私達家族は新潟、茨城、群馬と転勤を繰り返しそんな転勤生活に疑問をもって夫の故郷、愛知県に帰ってきました。そしてその頃から家を建てる話が出てくるようになりました。
家を建てるのは私にとって一生に1度の夢!ついつい夢はふくらみます。
家は2×4の洋風、玄関の上にはアール窓が付いていてそこにはステンドグラスが燦然と輝いている!ウーン最高!

ところが住宅展示場を見て回り、ステンドグラスを取り付けると幾ら位になるか聞きますとステンドグラスを作ってくれる所が無いとの事。夢は夢か!ガクッ。

そんな時東海市の図書館でステンドグラスの本を見つけ巻末に載っていたステンドグラスアートスクールに電話をしてみたのです。
丁度通信教育が始まるとの事、早速申し込みました。
そして週1度の自習、夏季講習とこなし高等科を終了した頃、知多市の美術展に挑戦してみました。

この時、奨励賞をもらいました。

1985年工房完成”スタジオガラスの靴”と命名し活動を始めます。
(工房と言ってもただの小屋ですけど)
テラリュウムを作って花屋さんに売り込みに行ったりしました。
ガラスやさんからパネルの注文が来たりもしましたが納期が短くて小さい子供を育てながらではキツイものがありました。

1986年’86日本ステンドグラスグランドショーが東京で開催されました。審査員は確か黒川記章さんだったと思います。
その時出展したのが竹取物語のランプです。優秀作品賞をもらいました。

※ステンドグラスやガラス工芸の世界では資格が有るわけではありません。自分が先生だと名乗ったら先生です。
私も美術展で賞をもらったのだから先生になっても良いのではと思い営業してみました。
そして東海中日文化センターで講師を3年する事になります。

その後も1988年年鑑グラスアート誌上展に入選、他美術展に入選、入賞をしていきます。
講師としては東海中日文化センターが少人数になって終わった後数ヶ月で東海市の公民館からの依頼で講習をします。
それをきっかけに武豊町、大府市、知多市、西尾、岡崎と教室が増えていきました。

勿論講師の話が来るだけでなく営業をして増えた所もあります。
この頃の夢は生徒が50人以上で1ヶ月の売上がいくらになったらお店を出したいと計画が具体的になってきました。
基本的に家計には負担を掛けず自分1人の力で出来る範囲を考えていました。

長年一つの事を続けているとそれなりの基盤が出来てくるものです。ある程度の売上、収入が分かってきます。
私がお店に掛けても良いと思える1ヶ月の金額は6万円位でした。1人で借りてお店を持つには少ない金額です。

それでまずは友人と2人でお店を開く事にしました。
1996年8月磁器人形の先生との共同経営でアーティストショップA&MO2が開店します。
名前のAは私の明美の頭文字です。MO2は百百代さんの略です。

この二人三脚も次の年の6月までしか続きませんでした。
ショップ経営より作家活動に専念したいとの百百代さんの希望により私一人が経営していく事となりました。
家賃、スタッフの給料、光熱費、他経費、それに開店時にガラス材料の購入(商品)、や設備の為の借り入れ金の返済が1人の肩にズシリとのしかかってきました。人間キツイ時も有るけど皆で力を合わせてどうやったら払っていけるか考え、努力していけば何とかなるものです。

人生山あり谷ありと言うけどお店を持ってからは谷あり谷ありばかりだったように思います。
少し順調に行き始めると何かトラブルが起きるのです。
今のお店に変わったのも私の意思では有りません。
でも結果から判断するとすごくいい方向に変わっていくんですね!
自分では恐ろしくて広いお店に変わるなんて考えもしないのに、他人に押されて仕方なくお店を変わる。それが大きな波を呼び寄せる。

人生思ってもみなかった方向へと流れて行くこともあるものです。
努力と情熱が有れば運もついて来るのでしょうか?

今は約60坪ほどの所にショップ、教室、工房、ギャラリー、部分を作りスタッフ3人とで忙しく働いています。
これからガラス工芸でプロとしてやって行きたいと思っている方、時は力になります。
5年間は1つの事をやり続けて見てください。
きっと何とかなっているか、目処がたっているとおもいます。頑張ってくださいね。

又何か質問が有りましたらどうぞ遠慮しないで連絡ください。
分かることは答えたいと思っています。

 

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